松永 延造

 私が未だ十九歳の頃であつた。
 私の生家から橋一つ越えた、すぐ向うの、山下町××番館を陰気な住居として、印度人〈アリア族〉の若者、ウラスマル氏が極く孤独な生活をいとなんでゐたと云ふ事に先づ話の糸口を見出さねばならない。彼れが絹布の貿易にたづさはつてゐる小商人だと云ふ事を私は屡ば聞いて知つてゐたが、然も、彼れの住居には何一つ商品らしいものなぞは積まれてゐなかつたし、それに、日曜以外の日でも、丁度浮浪者の如く彼れが少しも動かない眼に遠い空を見つめつつ、横浜公園の中を静かな足取りで、散歩してゐる所なぞを私は時々見かけたりしたので、そのため、段々と彼れについて次のやうな独断を下すやうになつた――
「彼れが少くとも一商人であると云ふ事は、彼れの為替相場に関する豊富な知識なぞに照しても、充分推定し得る。然し彼れは今や恐らく破産して了つたのだ。」
 私にそんな独断を敢へてなさしめた、もう一つ他の理由はと云へば、それは斯うである。
 彼れはその以前迄、一人だけであの旧風な煉瓦造りの××番館全体を使用してゐたが、間もなく、建築物の大部分をシャンダーラムと呼ばるるアリヤンの一家族へ又貸しをして了ひ、自分は北隅に位置をしめた十二畳程もある湯殿へと椅子や寝台を移し、そこで日夜を過ごす事に充分な満足を感じてゐたのである。

 私は当時、単なる失職者に過ぎなかった。とは云え、私自身とは全体何んな特質を持った個体であったのか? 物の順序として、先ず其れから語り出されねばならない。
 別段大きな特質を持たぬという点が私の特質であった故に、私は私自身に就いて、其れ程長い説明を此処で試みようとは思わない。正直と簡単とを尊重して、私は次の事丈を読者に告げ得れば、もうそれで満足である。
 私は一時、小学校の教員であった。そして直きに免職となって了う事が出来た。何故免職となり得たか? 日本語の発音及び文典の改良策に就いてと、それから小児遊園地の設計に就いて校長と少し許り論争した結果、私自身が何かしら「思想」と言ったようなものを所持している事が発見されて了ったからである。実に其の思想がいけなかった。多くもない私の特性のホンの一部がいけなかったのである。断って置くが、私は何んな場合でも過激を遠慮する内気な人間の部類に属し、却って年老いた校長の方が進取的な気質に満ちて「堕落しても好いから、新しいもの!」と云う希求を旗印しに立てていたのであった。従って、此の場合では、世間に好くある新旧思想の衝突と云ったようなものが恰度逆の状態で醸成されたのである。
 少し冗長になるが、それを我慢して話すならば、校長は恐ろしいエスペランチストで、幼稚園の生徒へ向って迄、此の世界語の注入に熱中したのである。光を受け入れる若芽のような学童たちは珍らしいものに対して覚えが早かった。彼等は花や樹の葉の事、又「嬉しい嬉しい。」なぞと云う事を皆エスペラントで話し初めた。そして皆が
「ボー、ボー。」と叫んだ。

 横浜外人居留地の近くに生れ、又、其処で成育した事が何よりの理由となって、私は支那人、印度人、時には埃及人などとさえ、深い友誼を取り交した経験を持っている。そして彼れ等の一人一人が私に示した幾つかの逸事は、何れも温い記憶となって、今尚お私の胸底に生き残り、為す事もない病臥の身(それが現在に於ける私の運命)へ向って、限りない慰めの源を提供するのである。

 時は大正×年、秋の初め、場所はB全科病院の長い廊下であった。当時の私は副院長の下に働く臨時雇いの助手であり、面前に立つ私の友は若い印度人(アリヤン)で、極く小さい貿易商の事務員、ラオチャンド氏であった。
 彼れの汗で濡れた広い額は丁度雨上りの庭土のように、暗い光りで輝き、濃い眉毛に密接した奥深い眼は、物体の形よりも、寧ろ唯だその影だけを見つめているように、懶う気であった。彼れの鼻は以前にも増して、嶮しく尖り、木で造ったかと思われる程に堅い印象を私に与えた。一カ月以前迄、彼れが小指にはめて居たニッケルの指環――鷲の頭が彫ってある――は、今や彼れの薬指へと移っていた。この事実は彼れが最近、何れ程急激な速度で、痩せ初めたかを、明らかに証拠立てていた。
 その日、彼れは私の紹介によって、病院の三等室へ――それも特別の割引きで――入院する事に決めて貰ったのである。

 
 
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